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by eisakutyan
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宗教を科学する?!

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柳沢桂子という生命科学者が「般若心経」に注釈を加えた本がベストセラーになった。難病を体験して宗教への道を歩んだ彼女は、「祈る」という行為は本能であって脳内神経回路に予め組み込まれているものだと断言する。そして今後百年以内に宗教は科学の力で解明されるだろうと予言する。「科学と宗教の狭間で」私たちに何が可能か、今日はそのあたりを格調高く迫ってみましょう、なんちゃって。w

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*私は「クラゲのリンジーさん」同様、この人の話は「NHKラジオ深夜便」で流して聞いただけなので、正確な詳しい話を知りたかったら、取敢えずはここ→柳沢桂子の「神秘体験」を熟読してから本でも買って下さい。w

エンドルフィンという。個体のストレスが極限にまで達すると、このモルヒネに似た脳内快感物質が分泌され、個体の苦悶は解消されて安心立命(?)に至るらしいことが最近わかって来た。モルヒネを生成出来るのは植物に限られ、我々の脳内で作られるのはβ-エンドルフィンとか言う物質で、その化学的組成も既に明らかにされている。

 ライオンにクビを咬みつかれて今や絶命寸前となったシマウマやインパラが見せる、あの恍惚感に満ち溢れた至福の表情にはこの物質が作用していると言われる。
 「食うて極楽、食われて往生」というわけである。

 宗教も畢竟これではないかと彼女は推理する。
 その根拠として、全ての宗教には艱難辛苦(困難な修行)が付き物であって、この苦行・荒行を通過しないことには、何人たりとも「悟りの心境」には到達し得ない。「修行」というのは人為的人工的なストレスの付加である。荒行・苦行を通じてストレスを極限にまで高めることによって、ついには脳内快感物質の分泌に至り、よって「悟り」「無我の境地」「大きなものに抱きかかえられたような絶対的安堵感」「至福の多幸感」を得られるのではないかと、彼女はそう言うのである。

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 人間とは何であるか。
 精神である。
 精神とは何であるか。
 自己である。          (ゴードン・キルケゴール)

 自己とは・・・多分「脳」だろう。      (goodmiwatya)

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*レーニンも「宗教はアヘンである」ではなく「宗教はモルヒネである」とでも言っておけば、彼の宗教観は今頃再評価されているかも知れない。w
 いずれにせよ、宗教の問題はデリケートなので私が今ここでどうこう言えるものでもない。神秘体験も超常現象も禅問答もすべて脳内物質に拠る一種の「錯覚」ということで説明出来るなら、所詮は「蛋白質の機械」に過ぎない我々にはお誂え向きの展開かも知れないが、世界の大多数の人々が何らかの宗教にそれぞれ抜き難い信任を与えて信奉している現在、「科学」がどんなに頑張って宗教の領域を更に狭めて行ったにしろ、宗教はそう易々と消滅し去るとも思われない。

 この方は自身が難病に罹られて魂の救いを宗教に求めた時点で、既に科学万能主義者ではなくなっている。かと言って特定の宗教に全面帰依したわけでもなく、近い将来の、科学に依る宗教の解明に言及したりもする。

 だからこの人が何に根本的な信頼を向け、どこに身を置いて何を語りたいのかは、よくわからない側面がある。言わばファジーなのだ。そこがべストセラーへの呼び水となったのかも知れない。

*彼女は般若心経解題の中で「空即是色」の「空」とは原子(粒子)であり、「色」とは可視的物質であると言い、この宇宙は渾然一体、滅することも生ずることもないのだと言っている。
 個々人の生死に関しても、「空」が一時的に「色」へと離合集散しているだけで何ら悲しむには値しないとまで彼女は言い切っていたが、私にはまだエンドルフィンが分泌されていないためか、私はとてもそこまでは悟っていないし悟りたいとも思わない。というか、「知らないで済むことは知らないままでいい」という問題を除けば、人が生まれ死ぬという重大事件を筆頭にした瞬間瞬間の個々の事象への拘りこそが、我々の人生そのものではないのか。解脱し達観し得た人の目には、イスラエル軍の空爆によって何人の子供が死のうと、それは「空」=粒子の運動に過ぎないと映るのだろうか。

 もう一つ、親鸞~吉本が言うところの「機縁」という問題もある。「えにし」である。彼女には彼女の巡り合わせがあって、それで科学とも宗教とも言えない場所に彼女は今身を置いているのだろうか、ということである。
by eisakutyan | 2006-08-04 07:43